地域情報
田尻ふるさとマップ
田尻ふるさとマップを公開しています。画像をクリックするとPDFが表示されます。
田尻の略年表
年号 | 西暦 | 移り変わり |
明 治 時 代 | ||
明治6年 | 1873 | 田尻村字台に『発蒙舎』が創立される。 |
7年 | 1874 | 発蒙舎、田尻小学校と改称する。 |
22年 | 1889 | 田尻村と小木津村が合併、日高村になる。 田尻~小木津間のサヤト隧道が貫通する。 |
30年 | 1897 | 常磐線、水戸から平まで開通する。 |
38年 | 1905 | 日立鉱山が創立する。(44年、日立製作所創立) |
43年 | 1910 | 小木津停車場(駅)ができる。 |
大 正 時 代 | ||
大正2年 | 1913 | 日立鉱山、高さ155.7mの大煙突を建設する。 |
7年 | 1918 | 日高村に電燈がつく。 |
12年 | 1923 | 関東大震災が起きる。 |
昭 和 時 代 | ||
昭和9年 | 1934 | サヤト隧道を取り崩し、切り通しにする。 |
11年 | 1936 | 権現山に東光院が鹿島郡より、移される。 |
14年 | 1939 | 日立町と助川町が合併、日立市となる。 |
16年 |
1941 |
太平洋戦争が始まる。 相田に駆王国民学校の『日輪道場』が開校。 |
20年 | 1945 | 日立市、戦災に遭う。終戦。自給製塩が行われる。 |
22年 | 1947 | 学校教育法公布。国民学校から小学校に改称する。 |
24年 | 1949 | 日高キリストの教会が創設される。 |
26年 | 1951 | 日立電鉄バス、現在の県道10号線を通り始める。 |
27年 | 1952 | 日高漁港(田尻浜)が第一漁港に指定される。 |
30年 | 1955 | 日高村など1市2町4村が合併、新日立市誕生する。 仏の浜(度志観音含む)県文化財史跡に指定される。 |
32年 | 1957 | 日立電線日高工場建設はじまる。 |
36年 | 1961 | この頃、小木津バイパス(6号国道)建設が始まる。 日高地区市民体育祭始まる。 |
39年 | 1964 | 東京オリンピックが開かれる。 上相田団地造成はじまる。以後、田尻宿、相田、田尻浜に、多くの団地造成が行われる。 |
45年 | 1970 | 県北自動車学校が開校する。 |
51年 | 1976 | 田尻幼稚園が開園する。 |
52年 | 1977 | 田尻小学校が日高小学校より分かれ開校する。 田尻ヶ丘病院が創設される。 |
53年 | 1978 | 田尻徳風保育園が開園する。 |
54年 | 1979 | 「田尻学区市民運動をすすめる会」が組織される。 |
55年 | 1980 | 滑川中学校、駒王中学校より分かれ、開校する。 |
60年 | 1985 | 常磐自動車道、日立北インターチェンジが開業する。 |
63年 | 1988 | 老人福祉センター『はまぎく荘』が創設される。 |
平 成 時 代 | ||
平成2年 | 1990 | 県道10号線、田尻宿地区の拡張工事はじまる。 |
3年 | 1991 | 広域下水道田尻中継ポンプ場が完成する。 |
7年 | 1995 | 阪神・淡路大震災・オウム真理教事件おきる。 北部消防署田沢出張所ができる。 日立鞍掛山霊園、墓地分譲始まる。 田尻コミュニテイセンターが開館する。 |
ふるさとの民話
ヤマトタケルと飽田
むかし、ヤマトタケルは后と、ある浜辺の村で海と山とに分かれて、 幸の多さを競い合いました。その頃小木津の野山には数えきれないほどたくさんの鹿が群れをなしていました。しかし、狩りに出たタケルは一匹も射止めることはできませんでした。海に出た后は、アワビや魚などをたくさん採ることができました。
タケルは負けてしまったのですが海の幸を腹一杯飽きるほと食べることができました。
後に、この浜辺の村は飽田と名がつけられました。そして、長い歳月のなかであきたがあいたと呼ばれるようになり、今の相田という地名になったということです。
種殿の神さま
むかし、種殿の神さまは、会議に遅れてしまったので、あわてて駆け出しました。しかし、あまり急いだので、畑の畦道でササゲのつるに足を取られて転んでしまいました。そして、ゴマのくきの先で目を突き抜いてしまったのです。
それ以来、田尻の人たちは、だあれも片目が小さくなったということです。
さめ穴と八幡太郎
相田浜から田尻浜へ通じる海岸に「さめ穴」と呼ばれる大きな洞窟があります。むかし、ここに大鮫が凄み、村の人たちをたいへん苦しめていました。この大鮫を八幡太郎義家が射止めたということです。しかし逃げ延びた鮫は、今の福島県いわき市の鮫川で、源氏の軍勢を待ち伏せたいへん苦しめたということです。
ふるさとの市民運動
日高地区と田尻学区
明治22年(1889)に、田尻村と小木津村が合併し「日高村」か誕生、多賀郡日高村大字田尻と大字小木津に なりました。昭和30年(1955)には日 立市に合併、同市田尻町になり、小木津町と共に日高地区となりました。
昭和52年(1977)、田尻小学校が開校して田尻学区ができ、昭和54年には「田尻学区市民運動をすすめる会」ができました。
市民運動とコミセン
「田尻学区市民運動をすすめる会」は、昭和54年に「日高学区市民運動を進める会」から分離し組織されました。思いやり、ふれあいのまちづくりを推進するために、平成7年にオープンした「田尻コミュニティセンター」(通称、田尻コミセン)を拠点として総務、広報、自主防災、地域福祉、青少年育成、環境、生活改善、体育レクの各部会が活動しています。コミセンは原則として、日立市民と日立市に在勤、在学してい る人が利用できます。田尻1丁目電話は(42)1552です。
防災と福祉
田尻町7丁目に日立市消防団第六分団があります。平成7年には、北部消防署田沢出張所ができ、防災活動につとめています。
昭和63年、田尻町7丁目に開所した日立市老人福祉センター「はまぎく荘」は、老人クラブ活動や機能回復訓練などを目的としています。併設されているデイサービスセンター(1階)は、入浴や食事のサービス などを目的としています。
市民運動をすすめる会では、自主防災訓練を実施したり、地域福祉ネットワークづくりなどに取り組んでいます。
ふるさとの風土
田尻地区の地形は、山地、台地や低地、そして、海岸に分けられます。地図でみると、西を頂点として、東を底辺とする細長い二等辺三角形をしています。頂点に近い部分が山地、中間が台地や低地、そして、底辺部が海岸です。山地で最も高い所は海抜382mです。山には杉や桧が多く、オオシマザクラなとの落葉樹やマツムシソウなどの山野草もあり、ハイキングを楽しむ人たちの憩いの場となっています。海抜268mの田尻富士は、田尻地区のどこからでも見ることができ、山頂からの眺めは、絶景の一語に尽きます。
かつて台地や低地には、田畑や雑木林が広がり、春には山菜、秋にはキノコが採れました。地区の南を流れる太田尻川や中央を流れる田尻川、また、それらの川に沿って広がっていた水田には、ザリガニがいたり、ホタルが飛び交いました。海岸は南北に約2kmにわたって磯や砂浜が続き、防風の松林は素晴らしい景観を作っています。
松林や雑木林には、スカシュリやハマギクの花が咲き、マルバグミ、シャリンバイが繁っています。海岸や岸壁では、太公望たちが海釣りを楽しんでいます。海ではアワビやワカメが採れ、格好な沿岸漁場になっています。
今では、台地と低地は住宅や工場に変わり、川はコンクリー トで造られ、自然がなくなっています。昔日の面影が見られなくなりました。しかし、まだ、自然を残す山・海に近く、冬暖かく、夏涼しい、すごしやすい恵まれた風土です。
うずもれていた昔
先土器時代から平安時代にいたる遺跡や墳墓が、相田、田尻宿、田尻浜の広い範囲にわたり数多く確認されています。
畑から畑から採取された土器などの遺物から、縄文~古墳、奈良~平安といった重複遺跡も多く確認されています。
このようなことから、田尻地区は、大昔から生活しやすい場所だったことがわかります。
田尻上の代遺跡
昭和48年発掘調査が行われ、縄文時代前期から晩期に至る遺跡であることが確認されました。
日立市としておおやけに行った最初の発掘調査でした。今から約4500年ほど前の縄文時代中期の堅穴住居が復元されています。
田尻浜橋の作遺跡
昭和54年発掘調査が行われ、出土した石器から約9千年~ 1万年前、先土器から縄文への過度期の遺跡であることがわかりました。
下相田遺跡
平成7年発掘調査が行われ、報告書はまだ出ていませんが、発掘された遺物、住居跡などから、古墳、奈良、平安に至る長い期間、居住していた遺跡であることが確認されました。
ふるさとの昔
奈良時代 道前の里飽田の村
奈良時代の文献『常陸国風土記』に飽田の村倭武天皇と仏の浜観世音彫造説話があり、所は共に多珂郡道前の里飽田の村とあります。道前の 里は現在の宮田、滑川から田尻、小木津あたりといわれています。飽田の村は、今の相田町あたりとする説が大方の見方ですが、田尻から小木津あたりとする説もあります。仏の 浜は太田尻あたりとの説があり、度志観音が仏の浜の観世音とされ、県の文化財史跡になっています。
平安時代 栄蔵小屋
平安時代末期の頃、栄蔵法師という修験僧が、田尻浜の小島に小屋をつくり住んでいたと伝えられ、長くこの島は栄蔵小屋と呼ばれてきました。徳川光図が、この島に橋を掛けて渡ったとする故事もあります。
室町時代 田尻館
田尻に相田氏という土豪が住んでいました。その館は田尻団地から田尻ヶ丘病院あたりにあったと伝えられています。室町末期、文明17年 (1486)岩城郡飯野平の豪族岩城氏が、佐竹領に侵入してきました。
『日高郷士誌』に、当時の館主、相田藤八郎とその郎党が、小木津静原の地で岩城軍と戦い、あえなく敗れ去ったと記されています。
江戸時代 田尻の問屋場
慶長9年(1604)に、海岸部を通っていた街道が内陸部に移され、中継所として問屋湯がおかれました。令の県道10号が、当時の街道 「岩城相馬街道」であり、問屋場が海野氏宅におかれました。街道の脇には松が植えられ、つい最近まで、松並木の一部が残っていました。
明治時代 廃蒙薔
明治5年(1873)政府によって学制が発布され翌年8 月、「発蒙舎」と名づけられた学校が、田尻村と小木津村のほぼ中程であった田尻の台(今の 田尻町巳丁目の北東部、切り通しの上付近)に創立されました。当時の生徒は男子94人、女子7人、合わせて101人と記録されています。
大正時代 度志観音
田尻小学校南側山林内にある度志観音は、江戸時代、水戸三十三所観音巡りの十五番札所(真言宗 観泉寺支配観音堂)になっていました。
大正時代には、宮田町にある曹洞宗、天童山大雄院の境外仏堂として御堂が新築され、同6年頃から昭和 16年頃まで憎侶が住み、地元の人々に厚く信仰されていました。
昭和時代 津乃宮公園
昭和10年、田尻浜津神社山林一帯に津乃宮公園が造られました。建立された記念碑には、西行法師と栄蔵法師が詠んだという歌が刻まれています。碑は長く枯れ草に埋もれていましたが、平成5年、田尻浜青年会により、再建立されました。
昭和時代 日輪道場
相田町長峰台地に、昭和16年(1941) 8月、宮田町にあった駒王国民学校の宿泊施設(150~160人の宿泊可能)を含めた高学年児童の修練道場として、日輪道場が開校しました。農事作業を通じて、校外指導と団体生活教育を実施してきましたが、戦災での本校焼失や児童数の減少などにより、昭和21年に閉鎖されました。
ふるさとの神・仏
田尻の守護神、種殿神社
「じゅうどの」と読み、田尻宿県道沿いにある田尻地区の鎮守さまです。今から470年前の大永5年(室町時代)の棟札があるといわれます。国造りの神である大己貴命を祭神とします。祭日は、5月5日と旧暦10月10日です。境内は約800坪で、境内社三社と樹齢約350年以上の椎の 巨樹があります。
火伏せの神の秋葉神社
田尻宿にあります。江戸後期の享和年閻(1801~4)田尻では火災が多く発生したため、火伏せの神である静岡県の秋葉大神を勧請したといわれます。祭日は、旧暦2月15日と 旧暦11月1日です。境内には椎の巨樹の他、不動明王を納めた御堂、地蔵菩薩石仏などがあります。
田尻浜の天王さま(素鵞神社)
厄除けの神、牛頭天王をまつる素鵞神社(祭神スサノオノミコト=牛頭天王)を旧暦6月14夕刻、御出社、約1mほどに盛り上げた砂の上にまつり、祭日である次の日にかけて、浜降り神事が行われています。
塩の祖神、塩竃神社
塩の祖神、塩椎神をまつるこの神社は、他に海上安全、安産の神なと の信仰をもち、相田町の守護神としてまつられています。以前は、旧暦 7月14日の夕刻4時頃からヨマチ (夜祭り)が行われていましたが、現在、7月第1 日曜日同時刻頃から行われています。
境内には「高磯古墳群」との名称 のある墳墓(古墳)が三基あります。
空窪寺(廃寺)の不動明王
この不動明王木像仏は、田尻浜、土岐栄氏所有の不動尊堂にまつられています。土岐家は、中世から大正後期まで、修験者及び神職の家でした。長年 「妙覚山大宝院」と号してきましたが、元禄年間、徳川光図の命でその由緒から「空窪寺」と改号されました。空窪寺の御本尊であった、この不動明王を主尊として、旧暦7月27日、若い衆世話人を中心にヨマチが行われています。
権現山の成田山東光院
真言宗智山派成田山東光院は、田尻宿南端、権現山と呼ばれている所にあります。昭和11年(1936)に高木修道和尚が、鹿島郡(現在の鹿嶋市)から移し、中興した寺院で御本尊は薬師如来です。境内には熊野権現社があり、宝麿元年(1751)10月吉日建立の「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養」銘の石塔や不動明王、水子地蔵なとの石仏が多くあります。
水の信仰、松弁天と柳弁天
日立電線日高工場水戸側通用門前にあります。別々にまつられていましたが、昭和57年(1982)、現在地に合祀されました。松は「門松」「松竹梅」に
みられるように、めでたいしで三木であり、柳は、中国からの渡来樹で霊力のある木として信仰されてきました。
以前、石祠はこれらの木の元にまつられていました。弁才天は、芸能神、安産神、福徳神、巳待ち講の主尊としての信仰がありますが、相田 町では水の守護神として、lE月第1 日曜日におまつりをしています。